力わざ発揮⁉️


今頃になって、学生時代は全然、勉強しなかった漢文を少し読むようになりました。

とはいえ、ネットサーフィンしてググるだけなんですが😃

読むのは、Yahoo!知恵袋の回答が大半です。

でも、今日は、Yahoo!知恵袋にない長い文に初挑戦しました。

長文の「原毀」韓愈  (唐時代)に、書き下し文と現代日本語訳のあるサイト《韓愈哲学 《「原毀」》 儒家道徳の根源・本質をたずねる論文。》 を発見しました🎵
論文を書いた先生、ありがとうございます🙏

私はサイト中の細切れの文章を繋げました!
プチ苦労した単純作業なので披露します😉

(書き下し文)
古の君子、其の己を責むるや重くして以て周に、其の人を待つや、軽くして以て約なり。重くして以て周なり。故に怠らず。軽くして以て約なり。故に入善を為すを楽しむ。聞く古の人に葬といふ老有り、其の人と爲りや仁義の人なりと。其の周公為る所以の者を求め、己を責めて日く、彼も人なり、予も人なり。彼走を能くするに、而も我は乃ち是を能くせずと。早夜に以て恩ひ、其の周公の如くならざる者を去って、其の周公の如き者に就く。舜は大聖人なり。後世及ぶ無し。周公は大聖人なり。後世及ぶ無し。是の人や、乃ち日く、舜の如くならず、周公の如くならざるは、吾の病なりと。是れ赤身を責むる者、重くして以て周ならずや。其の人に於けるや,曰く:「彼の人や,能く是れ有り,是れ良人と為すに足る。能く是れを善くす,是れ藝人と為すに足ると。」其の一を取りて,其の二を責めず;其の新に即【つ】いて,其の舊を究めず;恐恐然として惟だ其の人の善を為すの利を得ざらんことを懼る。一善は修め易きなり,一藝は能くし易きなり;其の人に於けるや,乃ち曰く:「能く是れ有り,是れも亦た足れり!」と。曰く:「能く是れを善くし,是れも亦た足れり。」と。不亦た人を待つ者、輕くして以って約ならずや。今の君子は則ち然らず。其の人を責むるや詳【つまびらか】に、其の己を待つや廉なり。詳なるが故に入善を為すを難んず。廉なるが故に自ら取るや少し。己未だ善有らざるに、日く、「我是を善くす。是も亦足れり」と。己未だ能くすること有らざるに、日く、「我是を能くす。是も亦足れり」と。外は以て人を欺き、内は以て心を欺き、末だ少しも得ること有らずして止む。亦其の身を待つこと己だ廉ならずや。其の人に於けるや、日く、「彼是を能くすと雄も、其の人は稲【しょう】するに足らざるなり。」「彼是を善くすと錐も、其の用は稱するに足らざるなり」と。其の一を挙げて、其の十を計らず。其の善を究めて、其の新を図【はか】らず。恐恐然として惟其の人の聞ゆること有らんを懼【おそ】るるなり。是れ亦人に責むること己【はなは】だ詳【つまびらか】ならずや。夫れ是を之れ衆人を以て其の身を待たずして、聖人を以って人に望むと謂ふ。吾未だ其の己を尊ぶを見ざるなり。然り雖も、是を為すほ本有り原有り。怠と忌との謂なり。怠る者は修むること能はずして、忌む者は人の修むるを畏る。吾之を常試せり。常試【こころ】みに衆に語って曰く、「某は良士なり、某は良士なり」と。其の應ずる者は必ず其の人の異なり。然らずんば則ち其の疎遠【そえん】にして、興に其の利を同じうせざる所の者なり。然らずんば則ち其の畏るるなり。是の若くならずんば、強者は必ず言に怒り、懦者【だしゃ】は必ず色に怒る。又嘗みに衆に語って日く、某は良士に非ず。某は艮土に非ずと。其の應ぜざる者は、必ず其の人の異なり。然らずんば則ち其の疎遠にして、輿に其の利を同じうせざる所の者なり。然らずんば則ち其の畏るるなり。是の若くならずんば強者は必ず言に説び、儒者は必ず色に説ぶ。是の故に事修【おさ】まって謗【そしり】興【おこ】り、徳高くして毀【そしり】來る。
鳴呼、士の此の世に處【お】りて、名誉の光き、道徳の行はるるを望むや難きのみ。將に上に作す有らんとする者、吾が説【せつ】を得て之を存せば、其の国家 幾【き】して理【おさ】む可きか。

(現代語訳)
古代の君子といわれる成徳の人は、自分にたいして責めることは重くして、それをどんな事にもあまねく行きわたっているのである。その君子は他人にたいして期待することにおいて、軽くて簡略なものとしているのである。自己を責めることが厳重でありどんな事にもあまねく行きわたっているのであるから、それゆえ怠惰でないのである。人に期待することが軽くてひかえめであるから、それゆえ人々は善をなすことを楽しむことができるのである。聞くところによると、古代の五帝の舜があって、「その人物はひととなりがよく、仁という博愛の心があり、義という理性をもってすじみちを行う人である。」と。古代の君子である、その周公の貴ばれるわけである才芸を求めて、自分を責めていう。「彼も人間であり、自分も人間である。彼にはこれができるのに、自分はそれなのにこれができない。」と。朝から晩に思い求めて、その周公のようできないとそこから去って、その周公のように才芸の多い方へと行くのである。舜は大聖人であり、偉大な智徳の最高な人物である。周公は大聖人である。後世にこれに及ぶものはいない。これなる人であるが、それなのに、いう。「舜のようでなく、周公且のようでないことが、自分の心配である。」という。これはまた、わが身の行いを責めることの、重くて行き届いたことではないか。その古代の君子が人に対するときにはいうのである、「あの人の事である。」「あの人には、ここにいう善事があることである。これが善良な人とするに十分なことなのである。」「この仕事を上手にすることができたということ。これは、多芸の人ということとするには十分である」ということなのだ。「その一つを取りあげて、うまいか、うまくいかないか、その二つについて責めを問うことをしない。」「その人が努力して新しく進んだところについて見て、その過去のいたらなかったところを追究しないことである。」「心おそれてなにもできないでいることは、その人が善事をなす利便を得ないかもしれないことを心配することになる。」一つの善事はよく行いやすいものなのである。一つの技芸はできやすいものである。それなのに、その人が他人に対するときにこういう。「あの人にはこの能力があることができたのだから、これもまたこれだけで十分である」という。そしていう、「これを立派におこなうことができたのだから、これでもまた十分である。」と。これが他の人に期待することが軽くしてひかえめなことではなかろうか。今の君子はそうではない。今の君主は人を責める場合は詳細であり、ところが自分にたいしては期待することのハードルを低く設定する。人をとがめ責めることにかんして微に入り細にいるもので、それ故人は善を為すことをはばかるようになる。欲が少ないから、それ故に自分が修得することは少ないのである。自分にはまだ善行の積重ねがないのに、「自分はこれが上手なのだから、これで十分である」といい、自分にはまだできるという実証を重ねたことがないのに、「自分はこれができるから、これで十分である」という。これは外においては人をあざむくことであり、内においては自分自身の心をあざむくことである。まだ少しも得ることがなくて中途半端で終るのである。それこそわが身に期待することが、はなはだ自分に甘いこと、やろうとする物事のハードルを低く設定するということではないだろうか。そのように中途半端な今の君子が人に対する場合のことをいう。「彼はこのようにすることができるけれども、彼の人物はほめるに足らない。」「彼はこのことは上手であるけれども、その働きはほめるに足らない」と。その人の一つの不善を取りあげているのであり、その他の十の美点をはかることをしない。またその人の過去の事を追究して、その人の新しく進歩したことをはかることをしないのである。恐れにおそれて、ただその人の有名になったらどうしようということばかりをおそれるのである。だから、その人を責めることになるのであり、はなはだ詳密ではないことを責めるのである。その人を責めることは、これをこそ、人並みの人間をもって自分自身に期待せずして、最高至上の聖人をもって他人に希望するのだということである。これでは私には、その人が自分自身を尊んでいるとは見えないのである。そうであるというけれども、このようにするのには、その本源があり、原因がある。それはその人の心にある怠りと人の善をきらう心とをいうことである。なまけ心のあるものは、身の行いをよくすることはできないし、人の善をいやがる者は、他人が行いを善くするのをおそれるのである。私はこれを実地に試みたのである。実際に試みてみると衆人に語っていう、「なにがしの人はよい人物であり、ある人はよい人物である」と。その衆人の中で、それにたいしてそうだと答えるものは、必ずその人物のなかまである。そうでなければ、その人物とは関係が疎い人、遠い人であり、その人と利害をともにしないものである。またそうでないとすれば、その中でその人物をおそれているということである。このような三種の関係でないならは、気の強いものは必ず言葉に出して怒り、意気地のないものは必ず顔色に怒りをあらわすのである。また試みに衆人、小者に告げて、なにがしは良い人物でない。あるいは誰それは良い人物でないというのである。その衆人、小者の中で、それに対してその通りと答えないものは必ずその「某」の仲間である。そうでなければその「某」と関係がうとく遠くて、利益を同じくしていないもの、仲間ではないである。あるいは、そうでなければ其の中でその「某」をおそれているものである。このような人々でなければ、気の強いものは言語に出して悦び、意気地のないものは顔色に悦びのようすをあらわすのである。このようなわけで、事業が次第によくでき上がってくるにしたがって、かえって誹謗中傷がおこりはじめ、人格が高くなるにしたがって、かえってそしり・妬みがやってくるのである。ああ、立派な人物がひろくこの世の中に住むようになっても、名誉心、功名心が光りかがやくことになる。ということで、道義や人格が広く行われることを望むのではあるけれど、実に困難なことである。まさに、人の上に立って政治をしょうと思う者が、わたくしの「原毀の説」を会得して、常にこれを心にたもって忘れないことである。それで、その国家は、願いのように治めることができるであろう―っよ!。

原文もインターネットから